日本の建築と古代エジプト

まずは、前提として古墳はお墓で間違いないですが、ピラミッドはお墓ではなく祭祀施設であろうというのが現在の一般的な考え方でして、これは目的が違いますので、そもそも形状の志向なども異なりますし、文化も違います。

ピラミッドと古墳の客観的な見たけとして、ピラミッドは高く建築されているのに対して、古墳は平らに設計してある事が分かります。

ここで重要なポイントとして、古墳は高くしたかったけど建築の技術がなかったのか、それとも、高くする気がなかったのかを、考えなければなりませんが、おそらく答えは高くする気がそもそもなかったと言うのが正解だと思われます。

古墳がお墓だとすれば、埋葬ということになりますが、これは言葉通り土に戻すことであり、そのため埋葬施設に高さを求めることは世界的に見てもほとんどありません。

有名な中国の始皇帝のお墓もそうですが、エジプトでも王家の谷などは、決して高さを感じるものではありませんね。

そして、祭祀施設なのですが、これは主に高さを求めることが多く、ピラミッドはもちろんのこと、日本においては、出雲大社など48メートルの高さを誇っていたという説もあるほどで、これが事実なら世界最大級の木造建造物です。

ちなみに、祭祀とは神に祈る行為でして、上空に向かうものが多いということがその理由と考えられており、より高くということに繋がるのです。

この時代はの墓は、水平に建築する考えで、祭祀施設は高く建築するという傾向にあったのです。

建築業界の偉人

日本で建築と言えば、間違いなく1930年代前後のことを語らなくては話にならないのですが、その中で祇園閣は、大倉財閥の創始者大倉喜八郎が、隠居所として建てた別荘「真葛荘」に由来し、1927年に竣工したわけですが、設計を担当していたのは伊東忠太です。

この伊東忠太は、日本の建築界を築いた人物でもあり、明治から昭和にかけての建築界の権威として知られています。

他に平安神宮や明治神宮など多くの設計に携わっており、大倉喜八郎は、伊東忠太に対して、当初、金閣、銀閣に次ぐ銅閣の設計を依頼します。

その内容は、傘が逆さまに開いた形という奇抜なものであったらしく、あまりに斬新過ぎたためか伊東は実現困難であるとして断ります。

これに変わる案として提案されたのが祇園祭の鉾で、一年中鉾が見られのというのも、楽しいだろうという発想でしたが、銅閣の夢は忘れられず、屋根は銅葺きにするよう頼んだという事です。

築地本願寺を設計した建築家というのも伊東忠太博士でして、関東大震災で崩壊した本堂の再建にあたって、古代インド様式を取り入れて設計したものです。

1867年11月21日から1954年4月7日 は明治~昭和期の建築家、建築史家でして、米沢生で産声をあげ、少年時代を東京の佐倉で過ごすし、帝国大学工科大学を卒業知るわけですが、帝国大学工科大学は現在の東京大学になります。

そして、工学博士となり東京帝国大学教授となったわけですが、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始したわけでして、「建築進化論」を唱えて、それを実践するように独特の様式を持った築地本願寺などの作品を残してきました。

1943年には建築界ではじめて文化勲章を受章した人物でもあります。

新しい太陽光発電の可能性は、本当に未知数です。

建築パースシェルパ

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